◎尾川 泰将
まずは自分の家族や親しい友人、恋人のこと……そう想定して、2019年初冬に報道された神奈川新聞の記事をお読みください。
「30日午後3時40分ごろ、横須賀市野比の野比海岸沖で、ミニボートが転覆し釣り客の男性1人が行方不明になった、と貸しボート店主から118番通報があった。乗船していたのは40代の男性2人で、1人は店主に救助された。
横須賀海上保安部によると、2人は会社の元同僚で同日午前7時半ごろからボートに乗船。午後2時25分ごろ、「もうすぐ戻る」と電話があったが帰ってこないため、店主が様子を見に行くと、沖合約200メートル付近でボートが転覆しているのを発見した。1人はボートに捕まっているところを救助された。
釣りを終えて岸に戻ろうとエンジンをかける際にバランスを崩し転覆。2人はボートに捕まっていたが、1人が救助を求めるために泳ぎだした後、行方が分からなくなったという」(神奈川新聞 カナロコ、2019/11/30付)
「横須賀市野比の野比海岸沖で11月30日、ミニボートが転覆した事故で、行方不明になっていた釣り客の男性(44)が12月1日、近くの岸壁に打ち上げられているのが見つかり、死亡が確認された。
横須賀海上保安部によると、男性は東京都大田区、会社員。1日午前6時50分ごろ、事故現場から約1.3キロ離れた同市野比の海岸突堤にライフジャケットを着用して打ち上げられているのを、近くを通りがかった漁船が発見した。目立った外傷はないという」(神奈川新聞 カナロコ、2019/12/1付)
働き盛りの40代、ご家庭もお持ちだったとすれば、さらに暗たんとした、重たい気分になります。ご遺族、親しいご関係者さまに心底お悔やみ申し上げます。
Wednesday尾川です。
本テーマの初回、ライジャケのやばい話(1)で取り上げた本誌ライター赤地忍氏の死亡事故との共通点は、落水、そして漂流による死。
手こぎボートや2馬力艇などのミニボートはサイズが小さく軽量なものが多く、バランスや挙動は不安定です。当たり前のことながら、だからこそ「転覆・落水しない」よう、常に重心に配慮し、艇体のバランスを均等に保たなければなりません。とくに、
・アンカーの引き上げや、男性の小用時など、姿勢(重心)が高くなるとき
・リコイルスタータを強く引っ張る、船外機のエンジンがけ
・魚の取り込みやオマツリほどきの時など、なにかしらの動作時に起きやすい、重心の傾き
これらは片舷あるいは船の前後に重心が傾き、バランスを崩して転覆、浸水、さらには落水の危険度が高まる場面。厳重注意です。
報道記事から察するに、非常にショッキングだったのは「不具合のないライフジャケットをきちんと着用した状態で発見された」と読み取れる点でした。最終的な事故調査報告書は一年近くかかるようなので詳細は不確定ですが、こうした不幸な事故を繰り返さないために、あえて「推測」を交えた私見を書きます。
新聞の記事を読み返してみると、
・一人は転覆したボートにしがみついて待ち、救助。
・もう一人は、ボート乗り場に向かって泳ぎ行方不明、そして死亡。
スマホやケータイは水没するなど何らかの原因で使用できなかったと推測され、たぶん後者は、岸から数百メートルの距離だから「なんとかイケる」と思ったのでしょう。元同僚の友人には待つよう指示し、身をていして泳いだこの方は、責任感が強い素晴らしい人に違いありません。
しかし、ここに生死の分岐点があった可能性があります。
仮に岸までわずか200〜300メートルとしても、プールでの遊泳を思い起こせば何往復もしなければならない距離。
さらにウエアもブーツを着て、ライジャケが膨らんだ状態で泳ぐとなると、私なら50メートル未満で力尽きると思います。というのも恥ずかしながら私は釣り船からの落水経験があり、そのとき目前に船ベリがあったわけですけれど、泳いで近づくだけでも必死でした(私は瀬戸内の海っぺりで育ったかっぱで、速くはないけど泳ぎは達者です)。
この泳ぎにくい状態でタイムロスしているうちに襲いかかってくるのが「低体温症」です。その恐ろしさを知り、対策をとっていたら、この釣り人は助かっていたかもしれません。
低体温症という言葉を最も耳目にするのは雪山などでの遭難事故。
でも、落水による漂流も非常に怖いのです。水は大気の約25倍の速さで体温を奪うとされ、長く浸るほど熱は急速に奪われ、意識混濁→意識不明→低体温で死亡……と進みます。
↑海上保安庁のHPより転載
上の表は、水温と生存予想時間(死に至るタイムリミット)の関係。
当時、事故現場の海水温は15〜20℃ の範囲でしたから生存予想時間は12時間以下。注意してほしいのは「以下」という記述で、これは体格、体力、年齢、健康状態などで個人差があるためです。実は、死に至る前の「意識不明に陥る時間」はもっと早くて、水温15〜20℃ で7時間以下、早ければ2時間という報告(米国沿岸警備隊のデータ)もあります。
体温の放出が大きな部位は、頭、首、四肢の付け根など。そしてぜひ頭にたたき込んでおいてほしいのは、沖合で漂流事故に遭ったとき「激しく泳ぐ行為はタブー」という鉄則。上記した部位を冷たい水にさらして、放熱を加速させてしまうからです。
海のもしもは118番でご存じの海上保安庁が提示しているキーワードは、
「(動かず)浮いて待て!」
さらにもう一つ覚えておきたいキーワードは、スキューバダイビングやサーフィンにおけるレスキューに詳しい人ならご存じの、
H.E.L.P
ヘルプです。H.E.L.Pとは、Heat Escape Lessening Posture(またはPosition)の頭文字をとったもの。
日本語にすると「熱放出低減姿勢」と漢字だらけの難解な表現になりますが、漂流時につかまる浮遊物がなければ、次の図のような漂流姿勢をとって体温を確保しろということです。
↑海上保安庁のHPより転載
手足を閉じて体温の放出を防ぐ姿勢をとり、救助を待つのです。
人数がいれば胸を密着させて寄り添い、体温放出を防ぐ姿勢をとりましょう。
また、頭からの放熱は大きいので帽子やフードがあれば被っておいたほうがよく、ブーツなどもそのまま履いておくのが賢明です。
こうして見てくると「板子一枚下は地獄」という船乗りのことわざは今もそのまま生きていることが分かるでしょう。そして、どんな趣味でも、とくにアウトドア関連の趣味やスポーツは必ずリスクがあることを頭に置いてください。
しかしそれを闇雲に恐れるばかりでは何もできませんから、事故のリスクを極限まで減らしていく「安全対策」を身につけ、実践するほかないのです。
赤地忍氏の一周忌を過ぎ、お父さんから告げられました。
「一人息子を失ってからずーっと女房は魂が抜けた精神状態。でも俺までそうなったらダメ、なんとか元気にやってます。そしてね、これだけは警察にも、海上保安庁にも、そして尾川さんみたいなマスコミの方にも言いたい。同じ目に遭う人が一人でも減るよう、この事故をどんどん発信してください。息子の死を無駄にしたくない」
同じ銘柄を吸っていた赤地さんのお墓にタバコを供えて、揺れ昇る淡い紫煙を見つめながら記事を書こうと決めた瞬間でした。