◉ども。洲ノ崎沖のヤリイカから東京湾の深場のスミイカ、再び洲ノ崎沖~白浜沖のスルメ・ヤリからの片貝沖でアカムツと、最近は妙にイカ率の高い沖藤です。
▲片貝沖にて飛沫を浴びる照英さん。いやあ、後半は風がよう吹きました
それにしても冬の沖干しはうまいですね。って、いつの間にかスルメが冬のイカになっちゃってるのも気になりますけど、うまい具合に乾いて実にいい感じ。
▲沖イカハンターの皆様、ありがとうございました!
今晩も沖干しとイカの口とヤリイカのアヒージョで一杯やったところです。はい。
▲イカの口はまた珍味でござる(ちょっと火を通しすぎちゃった)
さてこのヤリ、スルメイカ釣り、プラヅノを使ったブランコ仕掛けや直結仕掛けが主流ですよね。
今では「沖イカ」とも呼ばれる、ツノを10本以上、たくさん繋いだ昼間のイカ釣り仕掛けは、職漁がルーツとされているのは皆さんご存じだと思うのですが、その発祥が関東地方であることはあまり知られていないかもしれません。
昼のスルメ・ヤリイカ仕掛けの元祖は関東
実は2月15日発売の『隔週刊つり情報3月1日号』でイカ釣りの特集を組みまして、原稿を書くにあたってネタ本でもある『釣技百科』を読み返し、明治から昭和初期にかけてのイカ仕掛けと釣り方を再確認してみたんです。
すると「関東・伊豆の昼イカ擬餌釣り」という項目に「関東の昼イカヅノの起源」という一節があり、これがなかなか面白い話なんです(漢字と送りカナは変えてあります)。
いわく、昼のイカ釣りは関東に起こった釣具で、その発祥について、当時(昭和初期)興味ある調査が発表されていたとのこと。
要約すると、
◉明治33年ごろ、三崎の孫兵衛丸萬吉がイカヅノを鉄製にし、よく釣れた。しかし錆びてしまうのが欠点だった(鉄製にする前の素材については書かれていない)。
◉2年後に七左衛門丸亀吉が鉛でイカヅノを作った。錆びずに比重もあり良好。
◉当時は潮が緩ければよく釣れて、潮が速いと釣れなかったのに、大井丸舟の善吉だけがイカを釣る。怪しんで集まり見てみると、糸を柿渋で染めていた。糸を柿渋で染めると潮で吹き上げられにくくなり、イカのもとへツノが届くようになった。糸の耐久性も向上し一石二鳥。
(水産研究誌第十二巻第6号・新宅定一氏発表「三崎昼間いか釣漁業」より)
で、当時の東京湾口~相模湾~伊豆方面のイカ釣り仕掛けはこんな感じ。
「伊豆相模式昼イカ擬餌釣具」(松崎明治著・『釣技百科』より)
中オモリ30匁(号)の下に直結で鉛ヅノが連結される構造。もちろん手釣りで、40~50ピロ(60~75メートル)沈めて底ダチを取ってたぐって誘ったそうです。
慣れないと底ダチを取るのが難しく、最初は船頭に糸の長さを決めてもらったほうがよい、とも書かれていることから、現在のような下オモリになるのは少なくとも『釣技百科』が出版された昭和20年以降。
その後イカ仕掛けは、つい最近まで小田原や長井など相模湾のムギイカ釣りで親しまれてきた、下オモリを付けた鉛ヅノの手釣り道具へ進化。
そして手巻きリールとナイロン道糸、電動リールとPEラインの登場により急速に現在の形へと変化していくわけですが、その中で、大きな役割を果たしたのがプラスチック製のイカヅノ、
プラヅノの登場なのかもしれません。
ちなみに、竹製のイカヅノは20年ほど前までは時折見かけました。
で、関東式イカ仕掛けに変革をもたらしたイカヅノの進歩といえば、前記のとおり、明治期の三崎の孫兵衛丸萬吉と七左衛門丸亀吉。
思えば、プラヅノを作ったのはヤマシタ、現在のヤマリアだと聞いたことがあります。そしてヤマシタといえば、三浦半島を本拠に伝説的な名イカヅノを何種類も作ってきた会社です。
こうなるとイカ釣りの血脈、受け継がれてきたDNAというか、源流を感じずにはおれません。
やっぱり、知恵と体験によって生み出される釣具はすごいですよ。
ワタクシたちは直結だブランコだとか、やれ傷が付いたから交換だとか、やれ最近は14センチサイズがないとか簡単に言っちゃってますが、そこに至る道のりは、それはもうプロジェクトXの繰り返しだったワケです。
と、いったことを読んではメモっていたのですが、誌面に載せるスペースはなく、あくまで予備知識として原稿の下地に使うだけ。
というワケで、久しぶりに編集日誌にて、長文掲載させていただいた次第です。
おっと、気がつけば日付変わって愛猫・茶子さんの夜食の時間ですわ。
ついでなので、明後日から行くビンナガ釣りのルーツがどこかに載っているか、読んでおくことにします。
それではみなさん、感染予防を忘れずに、よい週末を!
▲早くごはんちょうだいよ、の図(ええ、親バカです)